阿弥陀寺 |
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会津若松市の中心部を東西に横断する七日町通り(県道252号線)を西進し、JR只見線「七日町」駅が右手に見えるとその手前左側に正覚山「阿弥陀寺」がある。明治初期に鶴が城から移設されたという3階建ての建造物「御三階」が目印だ。かつて大仏座像が境内にあったが、第二次大戦中の金属供出で撤去されたという。ここでは、明治後期に戊辰戦争戦没者の供養が許可されたのち大規模な供養祭が行われ、その記念碑が建っている。また、戊辰戦で生き残りその後も会津に居住した新選組隊士、「藤田五郎=山口次郎=斉藤一」の埋葬墓がある。 |
[斉藤 一] 天保15年(1844)江戸生まれ |
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幕臣山口祐治の長男として出生する。永倉新八によると播州明石浪人となっているが、江戸の人が正しいようだ。19才の時に誤って人をあやめて、京都へ逃げたとも言われている。京都に滞留中、江戸で交流のあった近藤勇に投合して、結成当時の壬生浪士組に参加したと考えられている。新選組では、副長助勤三番隊隊長。剣の腕は沖田総司に並ぶといわれ、撃剣師範をつとめた。池田屋騒動をはじめ数々の襲撃出動に参加している。また、粛清、暗殺にも抜擢されており、谷三十郎、武田観柳斎は彼が斬った。京都時代末期には、近藤の密命を受け、伊東甲子太郎率いる御陵衛士に参加。伊東暗殺とその残党を襲った油小路の決闘の当日、新選組に帰隊し、活躍した。江戸引き上げ以後は山口次郎と改名し、土方に従い会津に至る。会津では、土方に代わって会津新選組を率い、白河口への出動、母成峠の戦いなどを指揮した。その後、如来堂で西軍に囲まれ戦死したと伝えられたが、虎口を脱し、会津藩士として戊辰戦争を最後まで戦い、会津陥落とともに俘虜となって津軽に幽閉された。 許された後は藤田五郎と改め、旧藩主松平容保の仲立ちで会津藩士の娘「時尾」と結婚。西南戦争では九州に出張、警視庁警部補や巡査部長を経て、晩年は東京女子高師の職員等をつとめた。明治23年、47歳の時に麻布警察署詰外勤警部として、警視庁内での撃剣会に参加した記録が残っている。 新選組への参加の経緯が唐突である事、戊辰戦争では長く従った土方と決別して会津に残留した事などから、会津藩が新選組に潜入させた間諜だったという説もある。 |
清酒「会津中将」 阿弥陀寺から七日町通りを東に約200m、いかにも古めかしい軒並みが続いている。その中の一軒に、「鶴乃江酒造」がある。江戸時代の創業というこの酒造では、清酒「会津中将」という純米酒を造り、小売りしている。この無骨な店構えとお酒の名前が気に入って中を覗いた。店からは酒蔵が見え、清酒ができるまでの工程を見る事ができる。良質な会津の米と水に恵まれた会津若松は、造り酒屋が多い。淡麗な飲み口ながら味わい深いこの「会津中将」も、会津清酒の典型の一つといえる。 |
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