母成峠古戦場

 

母成峠(ぼなり・とうげ)は、慶応4年に土方歳三率いる会津新選組を中心とした東軍軍勢800名と西軍3000名が決戦を行なった古戦場として知られている。

磐越道「磐梯熱海」から母成グリーンライン有料道路に入ると、わずか20分足らずで母成峠古戦場の碑に至る。東側に安達太良山、北側には吾妻山、そして西側には磐梯山があり、この碑から北側を見下ろすと、山々に囲まれた盆地に原生林が延々と続いている。天気が良ければ、広々とした自然の景観が楽しめる。また、碑から2〜300m北側に進行すると、林の中に「戊辰戦役殉難者慰霊碑」を見ることができる。

[母成峠の戦い]

慶応4年8月21日、薩長土を中心とする西軍は、会津若松城下に侵攻すべく、大鳥圭介、土方歳三らの旧幕軍が警護する母成峠に一斉攻撃をかけた。東軍の主流である会津藩兵は、白河からの侵入に備えた勢至堂口、郡山からの中山口の守備についていたため、険路のため最も可能性の低いと見込まれていた二本松からの母成峠は、伝習隊、新選組、桑名藩ら旧幕軍に任されていた。土方歳三は、大鳥とともに旧幕軍を指揮しており、この頃には奥州列藩同盟との連携強化のため仙台へ部隊を移動させようと決めていた。彼らは、会津藩との約束からこの母成峠の守備を行っていたが、予想に反する西軍の一斉攻撃を受け、壊滅的な敗北を喫する。この敗北の後、土方は会津藩家老に対し、猪苗代への会津兵力集結を進言したが、聞き入れられず、西軍はそのまま会津城下へ侵攻した。当地での東軍殉難者は88名に上った。

新選組約70名を率いていた山口次郎(斎藤一)は、この戦の混乱で一人隊からはぐれ、後日会津若松に現れている。山口とともに会津新選組を指揮した安富才助島田魁中島登横倉甚五郎ら京都以来の新選組隊士、甲陽鎮撫隊から参加の斎藤一諾斎らも、この母成峠で奮戦したと伝えられている。また、新選組歩兵差図役を務めていた近藤芳助は、やはり隊から離脱し米沢に落ちたが、米沢藩降伏とともに拘留されることとなった。

母成峠の戦いで戦死した東軍兵士の遺体は、西軍の厳しい命令によって埋葬が許されず、しばらくの間放置されたが、見かねた地元の人々が密かにこの地に埋葬した。明治維新以後、雑草に覆われていたが、昭和53年になって郷土史研究家らの手によって発見された。「戊辰戦役殉難者慰霊碑」は、昭和57年に建立されたものである。また、当地には、幕末の会津藩家老であった西郷頼母が、東軍殉難者の慰霊が許された明治22年に詠んだ和歌が紹介されている。

「なき魂も
恨みは晴れてけふよりは
ともに長閑く天かけるらん」


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by Masato Miura 1997