武家屋敷

 会津若松市の中心から東山温泉に至る東山街道の奴郎ケ前交差点を過ぎると、左側に「会津武家屋敷」がある。宇都宮の戦いで足の指を負傷した土方歳三が、慶応四年の春、湯治していたといわれる東山温泉を超えると猪苗代湖である。文字どおり会津の東端の東山のふもとに、幕末の会津藩家老「西郷頼母」の邸宅を復元した観光スポットが「会津武家屋敷」だ。
 冠木門を入ると左手に西郷屋敷があり、将軍御成りの部屋や戊辰戦争の際家族が自刃した部屋、当時の武家のくらしが分かる武具・調度品などが展示公開されており、会津気風を知る手がかりとなるだろう。また、仏像などの美術館、郷土民芸品店、坂本竜馬を斬った佐々木只三郎の墓などが併設されている。
 会津藩校「日新館」との共通入場券は大人1,390円。

 


「会津武家屋敷」 会津若松市東山町大字石山字院内1番地
TEL: 0242-28-2525(代表)

 

[西郷頼母](さいごうたのも)

 幕末の会津藩家老、西郷頼母は、藩政の実質的な行政長官であった。代々世襲の家老の家柄に生まれ、質実剛健の会津気質を地で行く生っ粋である。当然、徳川幕府に忠誠たれという家訓を最もよく理解していた人物でもある。しかし、文久二年に藩主松平容保が幕府から新設の京都守護職を任命されたときは、必死で辞退を提言した。「薪木を担いで火中に飛び込むようなもの」という、主君の苦労を案じてのことであった。しかし、家訓に忠実を貫く容保を止めることはできず、家老職を罷免されてしまった。また、戊辰戦争の戦火が会津城下に及んだときは鶴が城に篭城し、自邸に残した家族を城内に入れなかったため、妻ら家族は全員が非業の自刃を遂げた。この時妻千重子が残した「なよたけ」の辞世は、武士の妻の典型として現代に語り継がれている。養子の西郷四郎は柔術使いとして知られ、小説「姿三四郎」のモデルとなった。


西郷頼母

[会津と多摩の共通項]

 会津藩は、藩祖保科正之以来、徳川幕府の親藩として忠誠心と兵の強さで知られている。新選組は、京都守護職を拝命していた幕末の会津藩主松平容保に雇われていた藩外組織である。一般的には、この関係は有名である。しかし、ルーツを辿っていくと意外な共通項が見えてくる。会津は、家訓によって徳川幕府への忠誠が厳しく規定されている。新選組やその母体となった武術天然理心流の発祥の地、多摩地区も徳川幕府開闢以来、将軍への強い報恩思想を受け継いでいた。その具体例が八王子千人同心の存在である。支配が他に例の少ない幕府の直轄、つまり「天領」であったことも影響している。
 会津と多摩、両者の共通項は、武田信玄の遺臣の血筋であるという見方がある。多摩地区は、武田勢力の本拠、甲州に接する武州の西端に位置している。徳川家康は、武州を治めるに当たり、精強さと忠誠心を誇る武田遺臣団を多数雇用し、武州辺境警備の任を与え、それを八王子千人同心として組織した。また一方、初代会津藩主保科正之は、徳川二代将軍秀忠の庶子として誕生し、その養育を担当したのが、八王子で暮らしていた信松院と見性院の姉妹であった。姉妹は武田信玄の娘である。そして7歳で養子入りした先が、武田家臣の家系である信州高遠の保科家というわけである。その後、正之は寛永二十年に会津に移封になった際、会津軍法を「武田式」に改め、後の会津松平家の家風を形成した。
 そんな両者の共通項である「武田式思考」が、京都での松平容保と新選組の主従関係の開始であると、その主張は説明している。この説明を支持したい。

 


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