近藤勇墓碑

飯盛山参道口から観光道路「いにしえ夢街道」を南に2km、近藤勇の墓碑がある天寧寺が街道の左手に現れる。一旦突き当たりの「奴郎ヶ前」交差点を左折したところから入るのが道順である。しかし、今回は天候が悪く、足元に不安があったため、手前の正法寺側から目的の墓碑を目指した。正法寺の手前に車を止め、お寺の本堂裏の墓地から「近藤勇の墓」のたて看板を頼りに山登りした。徒歩7〜8分といったところだ。東山天寧寺寺域の鬱蒼とした雑木林の中に、近藤勇墓碑は、近年建立された土方歳三の木製墓碑と並んで建っていた。墓碑からは、正面に会津鶴が城の天守閣を望むことができる。

 

[近藤勇墓碑]

 新選組隊長近藤勇は、慶応4年4月、甲陽鎮撫隊の敗北ののち、流山の庄屋宅を本陣として、その後の身の振り方を模索していた。徹底抗戦を唱える土方歳三に対し、近藤は「錦旗に刃向かう逆賊」の汚名を着せられるのを嫌い、ひとり西軍の元へ出頭していった。すぐさま西軍東山道先遣隊に引率され、板橋の西軍陣地に連行された近藤は、そこで土佐の谷干城(守部)らの独断によって斬首の刑に処され、35歳の命を絶った。同年4月25日のことであった。

 この年は、閏4月があった。旧暦特有の調整月で、4月が2回あったことになる。流山で近藤と別れた新選組本隊は、北関東での戦闘を経て、閏4月はじめには会津藩の本拠地である鶴が城下に再結集した。宇都宮戦線で負傷した土方歳三は、先に会津入りしていた幕府軍医の松本良循の治療を受けており、この時期の「会津」新選組を実質的に指揮したのは、山口次郎こと斉藤一だったと言われている。隊は、閏4月5日に会津藩主松平容保から白河口(会津の東南に位置し白河に至る要衝)方面の警護を任命され、翌日出動している。そして、この頃、彼らの元に近藤勇の刑死の報がもたらされた。容保は、その死を悼みこの碑にある「貫天院殿純忠義大居士」という最上級の戒名を送った。墓碑はこの閏4月から、母成峠を西軍に破られる8月21日までの間に建立されたものと思われる。建立には、治療を終えて旧幕軍の指揮にあたっていた土方や松本良循らの尽力があったと想像される。墓碑の下には、京の三条河原で晒された首が納められているという説があるが、これは物理的に困難だろう。死を覚悟して、近藤自身が土方に託した遺髪が埋葬されている可能性はある。

 母成峠の敗走後、新選組はこの天寧寺を屯所とし、宿営した記録が残っている。

 

 


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