鶴が城

会津若松市の物理的精神的中心、それが会津若松城、通称「鶴が城」だ。お城の北側、城前通りの「鶴が城北口」バス停前よりお濠に沿って走ると、北出丸の「島」に入る。そのままお濠をぐるっと回ると西出丸の駐車場に至る。ここから天守閣までは徒歩3分だ。
天守閣は5層構造となっており、1層が会津の歴史、2層が武器・武具・甲冑・印篭などの展示、3層が戊辰戦争関係資料、4層は松平容保公の肖像画と白虎隊隊士画の展示室になっている。そして最上階の5層は、展望台だ。

[鶴が城]

鶴が城は、1384年に葦名直盛が建立した東黒川館が始まりと言われている。葦名氏ののち、仙台の伊達氏が治めていたこともある。文禄年間に、蒲生氏が本格的な天守閣を持つ「鶴が城」を築城した。17世紀にこの地方を襲った大地震で、石垣や天守閣は傾いたが、加藤明成が改修し、ほぼ現在と同じ姿を作り上げた。

1643年に保科正之が信州から移封され、23万石の城主となると、幕末に滅びるまで約240年の間、保科・松平家が会津を支配した。戊辰戦争では、西軍の執拗な攻撃に約1ヶ月もの篭城戦を戦いつづけたが、明治元年(1868年)9月22日、陥落した。その時受けた砲撃で城壁はボロボロになり、明治7年に陸軍省の命令で取り壊された。その後、旧藩士遠藤敬祉らの尽力で払い下げられ、再び松平家に献上された。昭和9年、国の史跡指定を受ける。昭和40年には、当時の姿のままに復元され、現在に至っている。

武家屋敷として現在公開されている西郷頼母の家老邸や、藩校である日新館もかつてはこの城郭に隣接していたが、戊辰戦争で焼け、現在は共に郊外に復元されている。 

新選組が会津に滞在した慶応4年4月末から閏4月を経て9月上旬までの約5ヶ月間強、土方歳三山口次郎こと斉藤一ら幹部は幾度となくこの鶴が城に登城しているはずである。記録として確認できるのは、閏4月5日に白河出陣のため登城した山口次郎が、若殿である松平喜徳候に拝謁し、金子を受領した事実があるのみ。母成峠の戦いから敗走した新選組は、鶴が城の入城を拒否されており、隊士であり明治以後も生き抜いた近藤芳助(のちの川村三郎)は、書簡の中で次のように残している。

「会津城は城門を堅く閉ざして入城するを得ず。よんどころなく米沢口に退く。会津に在留するうち、会津人にあらざればかえって敵かとの疑いを味方に受けること数回、実に身の置くところなく・・・」

鶴が城の展望台から、周囲を眺めた。東山の天寧寺(写真右中央)では近藤勇の墓碑が天守閣を見据えているはずだ。そこに眠る近藤と土方の魂は、多摩から遠く離れたこの会津では安らかなのだろうか?
さて、飯盛山はどこだろうとファインダーを左にパーンした時、突然一羽のトンビが下のほうから舞いあがり、飯盛山上空で静止した。

[武徳殿]

北出丸の追手門から直進すると右手に武徳殿がある。瓦葺きの立派な武道場で、中を覗くとびっくりした。訪れたのが日曜日の朝だからかもしれないが、中では100人もの小学生が胴衣に面篭手を着けて一心に剣道の稽古をしていた。藩校の日新館が廃校となって100年以上が経過するが、会津の子供たちは今でもこうして剣道に励んでいるのだった。トーンの高い鋭い気合を聞いて、会津精神の伝統を感じた。

[鶴が城のご案内] 会津若松市追手門1-1

入館料  大人400円 小中学生150円
開館時間
 午前8時30分から午後5時(締切は午後4時30分)
駐車場  西出丸駐車場200台 三の丸駐車場30台+大型5台
休館日  毎年7月第1月曜から4日間 毎年12月第1火曜から3日間

会津若松市観光公社 TEL:0242-27-4005 FAX:27-4012


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