松前城


 松前といえば、にしん漁と松前漬がよく知られている。松前漬は、豊富に収穫される昆布といかを細切りにし、醤油とみりんでとろみを出した珍味である。にしんの卵である数の子を混ぜてあるものもよく見かける。お正月のお節料理には欠かせない「縁起もの」だ。他には、春先に松前城公園に咲き乱れる250種類もの桜の花も、松前町民の自慢の種だ。
 松前は、函館駅前から国道228号線「松前国道(福山街道ともいう)」を西に約100km。函館市街地域を過ぎると交通量も少なく信号も希なので、法定速度で走行しても1時間半程度で行くことができる。左に津軽海峡と遠くに津軽半島の山々を眺めながらのドライブは快適そのもの。途中、青函トンネル北海道出口のある福島町(横綱千代の富士・現九重親方の出生の地としても知られる)を過ぎると、松前まではもうあとわずかだ。
 幕末の松前は、蝦夷地随一の城下町で、当時からにしん漁や京・越前との貿易船の交流で栄えていた。また、アイヌに対する警備の要として、藩主松前氏のもと兵備にも神経を使っていた。戊辰戦争では、東北地方が奥羽列藩同盟として旧徳川方への帰属を議論していた頃から、早くも西軍への同調を決めていた。この一事をとっても、西国との交流の深さが伺える。しかしそれがたたり、町の歴史上最大唯一の戦争である箱館戦争に巻き込まれた。

【松前城攻略】

 明治元年10月25日。五稜郭に入城した徳川遺臣軍は、捕虜として捕らえた松前藩士に「箱館来訪の趣旨と蝦夷地統治に関する平和共存への協力依頼」を問うた書簡を持たせて松前に返した。しかし、藩主松前徳広は、この藩士を節義に反するとして死罪に処し、五稜郭へは返事すらしない黙殺の態度を取った。それに対し、榎本武揚は怒りを露にし、軍議により松前攻略が決定した。
 入城後3日目の10月27日、土方歳三が統率し、彰義隊、額兵隊、陸軍隊で構成する700名の精鋭部隊は、松前を目指した。28日は、木古内に宿泊したが、越冬のために備蓄した食糧・薪炭の提供を民家に求めたので、村民は大いに困ったという。以後、慣れない雪中行軍を続けながら目的地に刻々と迫った土方軍の士気は非常に高く、途中来襲を察知した松前藩が福島村に先兵を派遣して、闇討ちをかけようとしたが、早々にこれを破り、ほとんど無傷で松前に至った。
 11月5日払暁、山を背に海に面した松前福山城に土方軍の軍勢が現れた。夜明けと共に双方の砲撃が始まり、人口2万人の城下町はまたたく間に戦火にのまれていったという。北辺防備のための兵備と武士道精神教育にも力を注いだ松前藩の兵は良く戦ったが、歴戦の精鋭部隊を相手にする不利は否めず、30名以上の犠牲者を出して城を明け渡す屈辱に屈した。
 現在、城の右側にある搦め手門跡に説明板が残っている。松前兵は、この搦め手門の門扉を硬く閉ざし、時々開門して一斉砲撃を繰り返したため、土方軍は攻めあぐねていた。しかし、その開閉時間の一定性を読んだ土方は、銃隊を門扉の両側に忍び寄らせ、開門と同時に至近距離から砲兵を狙い撃ちしたため、これを攻略する事に成功したという。この逸話が、そこには記されていた。
 土方の親衛隊として松前攻略に参加した新選組隊士島田魁の日記によって、「土方が率いた奇襲隊が梯子を使って入城し、敵に攻撃のすきを与えず城を奪った」と考える説もあるが、解釈の違いであり、実際には戦闘があったようだ。

 この松前城攻防を含め徳川遺臣軍と戦った松前兵は、必ず敗走の際に民家や村に火を放って逃げたので、後世の批判を受けている。榎本の学んだ国際法知識を適用した徳川遺臣軍は、戦争に直接関係しない市民を巻き添えにしないよう配慮し、俘虜として監禁した松前兵にも津軽行きの便宜を図ったり、町民・農民として生きる選択肢を与えるなど、それまでの封建日本にない新しい考えを示した。

 落城後の松前藩主松前徳広の行く末は悲惨であった。土方軍が松前城に迫る前にひそかに城を脱し、家族と共に館の新城に移る予定であったが、別働隊が五稜郭から館城に向かっているとの報を聞き、江差北方の熊石に逃げた。
 そこから津軽藩をたよって渡船したが、あいにくの荒天で姫を失い、津軽に渡った後には持病の労咳が悪化したため、わずか25才の若さで死亡している。 
【松前城資料館】
松前町字松城 TEL : 01394-2-2216
入館料 大人210円 小人100円
開館 午前9時〜午後5時(4月〜9月)

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