鷲の木

 慶応から改元されて明治となった1868年10月。会津戦争に敗れ、仙台での奥羽列藩同盟の崩壊をみた戊辰戦争東軍は、それ以後「徳川脱走兵」として南部松島湾に集結していた榎本釜次郎(武揚)の海軍力に望みを託し、石巻に集結した。この地で事後策を練った彼らは、北海道にわたり、徳川遺臣によって「蝦夷共和国」を建設するという、海外留学経験を持つ榎本ら徳川エリートの先進的な考えに同意した。
 そして同年10月20日早朝、東軍士官兵士約4000名を載せた7隻の軍艦が、函館北方内浦湾に面する漁港、鷲の木浜に到着した。すでに約30cmも雪が積もり、海上には高波と暴風雪が殴り付ける、厳しい寒さの朝であった。

 「蝦夷富士」との異名を持つ活火山、駒ヶ岳を背にする鷲の木は、戸数わずか150軒ながら鰊漁で潤う富裕な漁村であり、兵糧調達面でも適していたし、また函館から小樽へと抜ける街道筋の要衝として、戦略的に重要な位置であった。東軍を実質的に統率する榎本武揚が、かつて蝦夷を訪れた際に得た土地感があったことも理由の一つであろう。また、すでに国際都市として外国人の居留が許されていた函館に正面攻撃を仕掛ける事は、諸外国の反発を招くだろうという、国際政治的配慮もあった。
 斥侯隊を上陸させた後、艦上で幹部による軍議が開催された。来るべき戦争に備える士官・兵卒の軍律確認、そして大まかな幹部人事、そして函館五稜郭の函館府知事に対する嘆願の内容などが議題であった。人事としては、上陸後目指す五稜郭までの本道行軍指揮を大鳥圭介に、別働隊として迂回ルートを行軍する間道隊の指揮を土方歳三に任命している。この軍議で注目すべきは、一緒に乗船した板倉勝静備中松山藩主、桑名藩主松平定敬、小笠原長行唐津藩主のいわゆる東軍三侯の権力を排斥し、指揮権をもたない客員扱いにしている事である。ほんの数週間前は、殿様には家臣は死を賭してその意志に従うのが当然、という価値観が支配していたはずだが、石巻の乗船前後から、鷲の木につくまでに榎本らはその価値観否定を了承させていた事になる。その3藩の家来らは、土方指揮下の新選組に組み込まれていた。
 もうひとつの注目すべき点は、函館府知事に対する嘆願の内容である。それは、「蝦夷地の事は、徳川家から以前朝廷に奏上しているように、徳川家に支配させてもらいたい。」それを官側である函館府知事に了解させ、府知事から朝廷への許可願いを提出させる。というものである。叶わなければ、交戦やむなしと判断する、との恐喝付きである。その時点ですでに徳川家は、権力を一切喪失して静岡県に移封されており、実感を伴わないのは明らかである。政治的方便、あるいは戦端を開くための理由付けと考えるしかないが、もしも額面どうりの意志があったとすると、これは旧思考そのものだといえる。
 鷲の木上陸当日に先行した斥侯隊は、函館に向かう途中、早くも西軍警備隊と武力衝突し、函館戦争の戦端は口火を切った。平和解決をうたった嘆願書は、検討のテーブルにすら乗る事がなかったのはいうまでもない。
 新選組本隊は、大鳥の本道隊に組み込まれ、安富才助が率いて五稜郭を目指した。間道総督となった土方には、島田魁ら京都以来の親衛隊数人が同行した。

  鷲の木の寺院、霊鷲院は、榎本らが上陸した後、明治元年内のいわゆる戊辰函館戦争では、東軍の後方野戦病院として使われた。本道隊が五稜郭に至る函館本道を守る松前藩らと衝突した結果、絶命した兵士はこの寺に葬られている。石巻で新選組に入隊した唐津藩主小笠原長行の従弟、三好胖は、10月22日の七重村(現・七飯町)の戦いに白刃を振るって奮戦したが、叶わず討死している。17才であった。
 剣客伊庭八郎率いる遊撃隊に属していた和田幸之進(のちに間宮魁と改名)の記録による「函館脱走人名」が、この霊鷲院に戦没者五十回忌記念として贈られ、今でも大切に保存されているという。

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