多摩の人と歴史
土方歳三資料館所蔵資料 「八月十八日の政変に使用した鉢金」 |
文久3年(1863)8月18日に起きた「八月十八日の政変」(禁門の変)は、その年の3月に壬生浪士組として誕生した新選組にとって重大な意味を持っていた。
会津藩預かり浪士隊として京都市中の警備に携わっていた彼らだが、これといった武功もなく、むしろ大坂における力士との乱闘事件や、芹沢鴨一派の横暴によって「無法者集団」のレッテルが定着し始める頃であった。京の市民からは「壬生浪(みぶろ)」と蔑まれ、会津藩本陣所属の兵からもほとんど認識されない、つまり相手にされない状態であった。組織オーガナイザーとして、この浪人隊の名を上げる機会をうかがっていた土方歳三は、マイナスイメージが進行していくことに耐え難い屈辱を感じていた事であろう。そこに起きたのが、会津藩主松平容保ら幕府保守派が中心となり、「君側の奸を除く」として、朝廷と幕府を取り巻く京都政界から反幕府派の先鋒である長州藩を一方的に追い出したこの政変である。 この政変で武力衝突を予測していた容保は、壬生浪士組を正式な京都市中警備隊として公式に認知し、会津の古式にならって、この日8月18日に「新選組」と命名。朝廷から派遣された武家伝奏の野宮定功と飛鳥井雅典によって拝命し、「新選組」52名は仙洞御所の門前に出動、夜になって御所南門の警備を行った。 八月十八日の政変から4日後の8月22日、筑前の平野国臣の京都潜入を聞きつけた新選組は、三条木屋町の山中某邸を襲撃する。平野は不在であったが、その所在を追及し、同じ三条にあった古東領左衛門宅に潜伏していることを掴んだ。24日には古東邸を襲うが、平野は取り逃がしている。 新選組の名は、この時から京都中に響き渡り、幕府や朝廷にも認められ、尊攘浪士達から恐れられるようになる。この転機が歳三にとっては、よほど愉快であったのだろう。八月十八日の政変の初陣、そして8月22日〜24日までの行動に使用した鉢金(頭部への刀傷を避けるために鉢巻きに縫い付けた鉄製の防護板)を、故郷の佐藤彦五郎に贈っている。 |
鉢金の送り状 |
佐藤彦五郎に贈った鉢金は、文久4年2月に壬生を訪れた武州連光寺村(現在は多摩市)の名主富沢忠右衛門に託されて日野に至ったと考えられている。裏面に「尽忠報国志土方義豊」と彫られた鉢金の表面には、刀痕と思われる傷が幾つかついている。元治元年(文久4年は2月20日に元治と改元された)4月12日付の彦五郎宛ての送り状には、以下のように記されている。
覚え |
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三浦正人 e-mail
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