宮川家旧屋敷写真 |
三鷹と府中を結ぶ人見街道と小金井に通じる道の交わる辻に、近藤勇の生家、武州多摩郡上石原村の豪農であった宮川家の旧家跡がある。その敷地は、7反歩(7,000平方メートル)といわれ、欅、桜などの大木が10数本と竹林がうっそうと茂る、威風堂々とした屋敷であった。昭和18年に軍部による調布飛行場建設の際、滑走路の延長線上に有るという理由で立ち退きを要請され、取り壊されてしまった。現在は、近藤勇を祀った小さな祠、産湯の井戸が残るのみである。この井戸は、屋敷の南東隅に位置し、取り壊されるまで宮川家では生活用水として使用していた。
豪農であり、篤農家であった近藤勇の実父、宮川久次郎は、この広い屋敷に寺子屋や天然理心流武術の道場を持ち、勇ら子息の他、近在の子らを集めて学問と武術を指導していた。末弟であった勇が近藤周助に見込まれ、16才で天然理心流宗家に養子に入った後、この宮川家は調布・三鷹地区の出稽古先として、大いに賑わった。また、勇が上洛し、新選組局長となると、多摩地区では立身出世を夢見る若者たちがこぞって剣術を習うようになる。門人の数は、一時3,000名を数えたと言われている。 宮川勇五郎は、勇の長兄音五郎の次男で、勇に男子がなく江戸の留守居宅を守ることもままならないため、勇の一粒種瓊子の婿養子として近藤姓を名乗る事となった。天然理心流宗家は勇五郎が継承し、維新後、父音五郎から分け与えられた屋敷内の納屋を明治9年から道場に改築していた。この道場が「撥雲館」である。その名の由来は、ある時ここを訪れた元幕臣山岡鉄舟(文久3年徴募の浪士隊監督掛で、京都守護職預新選組の誕生時には肝煎りとして尽力した)が命名し、看板に揮毫したと伝えられている。「撥」とは、取り除く、という意味をもっている。撥雲館は、新選組ゆかりの人々によって暗雲を取り除いてもらいたいという、当時の旧幕臣の本音をよく表している。道場は、その後手狭になったため、門下生の手で昭和7年に屋敷の北側空地に改築され、盛大な道場開きが催された。しかし、勇五郎はその翌年、83才で天寿をまっとうした。瓊子との間に久太郎という子をもうけたが、早世。瓊子も若くして病没しているため、勇の血を直接継ぐ系統は絶えている。 その後、調布飛行場建設に伴う宮川邸取り壊しの際にも門人たちの熱意によって道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峰岸家に移築された。さらに戦後になって、人見街道の拡幅のため再移転する時、再び宮川家敷地内の現在地に移転され、現在に至ってる。なお、旧宮川家屋敷を忠実に細密に復元した模型が調布市郷土博物館(調布市小島町3-26-2京王相模原線京王多摩川駅下車徒歩4分)に展示されている。 |
近藤勇を祀った祠 |
近藤道場撥雲館は生家跡の正面 |
近藤勇生家跡
[所在地] 調布市野水1-6-8 [最寄駅] JR三鷹駅より小田急バス「車返団地行き」で22分。龍源寺にて下車徒歩3分。 駐車場なし |
「トップページに戻る」 「マップページに戻る」
三浦正人 e-mail
: miura@tamahito.com