近藤勇終焉の地 |
慶応4年4月総州流山で西軍東山道軍斥候隊の薩摩人有馬藤太によって囚われの身となった幕臣大久保大和こと近藤勇は、当時近藤の小姓であった隊士野村利三郎(のちに函館まで新選組隊士として従軍し、宮古湾海戦の甲鉄艦奪取に失敗し散華した)と相馬主計(同じく函館新選組に参加。土方歳三戦死後は最後の新選組隊長として終戦処理にあたり、新島流刑を経て、江戸で動機不明の切腹死)に付き添われ、中山道板橋中宿脇本陣の豊田一右衛門宅に護送された。ここで、元新選組隊士で御陵衛士を経て薩州軍に属していた加納道之助が近藤であることを確認したとされている。有馬らは近藤の一軍の将としての人物を惜しみ、延命を主張したが、当時同志坂本龍馬を暗殺した下手人は新選組であると決めてかかっている土佐の谷守部や軍監の香川敬三らの強硬な姿勢に押され、斬首の刑を執行することとなった。この間、流山を密かに脱した土方歳三は一旦江戸に戻り、勝海舟に近藤延命工作を働きかけたが、4月25日の刑執行を逃れることはできなかった。そんな周辺のやりとりをよそに、近藤は心静かに刑を待ち、辞世の七言絶句を残している。4月24日、近藤は滝野川三軒家の石山亀吉邸で今生最後の夜を過ごし、中山道平尾一里塚の馬捨て場(現在の旧中山道JR埼京線踏切から東側に約60m入ったあたり。宿場町で駅馬車用の馬が死ぬと埋葬したので馬捨て場と呼ばれていた)で、ついに斬首されてしまった。斬首の太刀取りは、美濃岡田藩の武術指南役の横倉喜三次という人物であった。
処刑の瞬間を目撃した近藤の娘婿である近藤勇五郎が、勇の故郷である武州多摩郡上石原村から人手を集めて刑場に戻り、見張り役の役人に金包を握らせ、首のない勇の亡骸を掘り起こして勇の生家宮川家の菩提寺である多摩郡大沢の龍源寺に埋葬したという話が子母澤寛の小説「新選組始末記」にある。 刑場跡から南にわずか離れたところに無縁仏をまつる塚があり、近藤勇の遺骸はここに埋葬されたとされている。勇が刑の前日宿泊した石山家の敷地内で、現在は北区滝野川4丁目22番にある真言宗豊山派寿徳寺の境外墓地となっている場所に、元新選組副長助勤であった永倉新八が建立したとされる新選組慰霊碑が建っている。明治9年(1876)5月に建立されたもので、永倉新八改め杉村義衛が発起人となって、近藤らの遺族や幕府典医頭で維新後は医学界の元老的存在として活躍した松本良順が参加している。高さ3.88m、幅0.45m、奥行き0.43mの墓碑には、正面に「近藤勇宜昌(昌宜が正しい)、土方歳三義豊之墓」と彫られ、両側面には110名もの新選組隊士の名前が刻まれている。墓域は、寿徳寺と檀家の人々によってよく手入れされており、毎年近藤勇の命日である4月25日には近藤勇の供養祭が行われている。また、滝野川北谷端睦会を発起人として、昭和4年(1929)4月に大規模な改修工事が施され、供養碑の造立者である永倉新八の墓碑が敷地内に建てられた。永倉の遺言によって遺骨の一部と遺髪が埋けられているという。 墓所前の書店では、寿徳寺が自費出版した「新選組と近藤勇文集」という有識者や土地の古老による寄稿文集が販売されている。 |
板橋新選組墓所
[所在地]北区滝野川7-8-1 [最寄駅]JR埼京線板橋駅東口徒歩1分 駐車場なし 近藤勇墓前祭 4月25日 |
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三浦正人 e-mail
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