高幡不動境内のお札所(宝輪殿)裏にある近藤勇、土方歳三の顕彰碑。明治7年8月に政府が「戊辰戦争の際、逆賊の汚名を着せられ戦死した者の祭祀を許す。」という官報を公布すると、二人に縁の深い小島為政(小野路名主)が発起人となって、小島のまとめた「両雄士伝」をもとに旧仙台藩の儒者大槻磐渓(清宗)に撰文を依頼し、旧会津藩主松平容保公の篆書、旧幕府典医頭松本良順の揮毫による「殉節両雄之碑」が起こされた。全高3mの一枚石に碑文が刻され、金剛寺境内に建立されたのは明治21年7月のことであった。建立者は小島を筆頭に、佐藤俊正(日野宿名主)、糟谷良循(歳三実兄)、土方義弘(歳三甥)、本田定年(谷保歳三親戚)、近藤勇次郎(勇養子)、橋本政直(小野路歳三親戚)及び当時の高幡山金剛地住職の賢雅となっている。刻者は内藤慶雲があたった。
尚、当初篆額は徳川慶喜に揮毫を依頼すべく、佐藤俊正が松本良順を通じ、旧幕臣であり明治以降も徳川家の家令となっていた小栗尚三に申し出た。慶喜は二度に渡る小栗の願い出でに対し、ただうつむいて落涙するばかりで、書くとも書かないとも言わず、感慨無量の様子であったという。
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