多摩の人と歴史
意訳文 その2
三浦正人 |
多摩川(立日橋の立川側から上流をのぞむ) |
3月1日、昌宜、義豊は甲州鎮撫隊となって、100余人を率い江戸を出発した。甲府へ至る途中、6日に因幡、土佐2藩の兵と遭遇。格闘したが、敗走することとなった。落ちて、流山に陣地を築く。そこをも官軍は取り巻く事となり、ついに昌宜は捕らわれの身となってしまった。4月25日、板橋にて斬首され、後に京都にその首級をさらすことになる。昌宜が囚われると、人はその人材を惜しみ、懇願して助命を請うものも出たが、昌宜は決して申し開きをすることはなかった。「我が主将軍は、皇城を犯すつもりは決してなかった。しかし、鳥羽伏見の関は唯いたずらに守りを主張して通過を拒否するばかりか、理由なく発砲し戦を仕掛けてきたではないか。それを東軍はやむを得ず応戦したに過ぎない。逆賊の謗りを受け、天兵の電撃を受けざるを得なかったのだ。だから、我々家臣は、無実の雪辱を晴らすために日夜痛恨の思いを募らせたのである。だから申し開きなぞせぬ。」と言い、斬首の刑に臨んでも平静として顔色を変えることなくそれに従い、無言で刃を受けた。享年35才であった。4月4日官軍は江戸に入った。慶喜は蟄居恭順し、水戸へ退いている。一方、義豊は旧幕臣榎本武揚らと合流し、会津に赴いた。そして、後の戦略を練り上げた。武揚は旧幕府所有の洋式軍艦を率い、さらに東へと向かった。義豊は、手兵150名を連れて首都を離れ、国府台に陣を移している。その夜には、徳川脱籍の志士が3000人も参加を希望。19日の未明、義豊は大鳥圭介、秋月登助らと力を合わせ、宇都宮城を攻略することとなった。そして、官軍も城外でよく応戦したが、三人は奮撃してそれを破った。29日には会津若松城に至り、8月23日にはここにも官軍が押し寄せてきた。城の兵は総出で戦い、双方の死傷者は多数であった。義豊は、松平定敬及び大鳥圭介らと城を出、綱木に布陣を移す。ついに9月23日には松平容保が降伏した。一方、榎本武揚は艦隊を松島に待機させており、圭介は兵を率いてこれに合流した。義豊は、彼らと力を合わせ、函館を奪い、新たにここに本拠を築く計画を立てる。10月20日に兵艦6艘に分乗し、鷲木湊に至る。兵力は約3000人。これを2隊に分け、一隊を義豊が指揮し嶺下に向かう、一隊は大鳥圭介が率い五稜郭に向かった。作戦は効を奏し、五稜郭占拠に成功。さらに28日には義豊は松前を落とすべく、尻内村まで進軍した。その夜敵兵に陣営を襲われたが、縦横に交戦し敵兵を退ける。11月5日についに松前城に迫り、3方からそれを攻撃して攻略に成功。ついで、江刺も配下に収める。15日、榎本武揚は英仏の2艦に委嘱し、朝廷に函館新政府独立の書を届けた。しかし、それを朝廷は許さず、討伐の詔勅を発する。2年3月、官軍は陸軍、海軍を集結し、6500名の兵を差し向けた。4月13日暁の霧に乗じて二股の新政府軍陣地を襲う。大鳥圭介らは反撃し、朝から翌日にまで及んだ戦いの末、官軍を撃破した。義豊は古屋、大川らと共に次々に官軍を破り続けた。味方に死傷者はなし。しかし、5月11日に官軍は大挙して函館に迫った。奮然と格闘するものの、抜刀して指揮する義豊が腹部に被弾し、ついに戦死する。享年35才であった。18日には、榎本武揚、松平太郎以下、新政府軍1000余人は降伏。函館に平和が訪れた。
初め榎本武揚が新政府独立の書を朝廷に提出した時、義豊は残念な表情を見せ、「自分がかつて昌宜と生死を共にしていたのは、あくまでも君の無実をそそぐためであった。現在この通りとなったが、自分は死あるのみと思っている。穏やかな処置があったとしても、どの顔で地下の昌宜と再び会えるというのか。」と語った。それを聞くものは涙を落としたと言う。 寧静子は、高幡山金剛寺は険しい山々を背にし、清流に面している多摩郡景勝の地であるという。前住職賢雅は彼ら二人の忠烈を思い、佐藤俊正、糟谷良循、土方義弘、本田定年、橋本正直、近藤勇次郎らと相談の上、拘魂碑をこの地の境内に建立して冥福を祈りたいと望んだ。飯田智英を介して、私に撰文を求めて来た。私はその意志を認め、多摩郡の人小島為政の「両雄士伝」を参考に、かくの如くその顛末を叙述することになった。 治世が一変して世間の記憶はまだ新しい。経済も変化したが人心の感慨はまだ灰になってはいない。この時代に当たり武士の激昂気節を負うものは、新しい方向を見定めている。過去が蘇ることない。新選組両名の様に、忠を全うすることに死をもって尽くすしかないという者も、それに誰が異議を唱えることができようか。ああ。 |
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