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新選組と多摩にゆかりの人物を五十音順に紹介します。

情報は順次追加していきます。

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Last Update: 9th Nov. 1996


市村鉄之助(いちむらてつのすけ)

美濃大垣出身。兄辰之助とともに15才で新選組に入隊。土方歳三の小姓として鳥羽伏見の戦い、そして会津、函館まで転戦した。函館戦争終結直前に土方の命で戦地を脱出し、官軍の目をかわすため乞食に身をやつして日野の佐藤彦五郎宅を訪ね、歳三の遺品を届けた。3年ほど佐藤家に匿われていたが、その後故郷へ帰った。しかし、西南戦争に参加し戦死したと言われている。


井上源三郎(いのうえげんざぶろう)

武州多摩郡日野宿生まれ。八王子千人同心井上藤左衛門の三男。天然理心流門人。文久3年の浪士組上洛に参加し、のち新選組副長助勤6番隊隊長。池田屋騒動では17両の褒賞金を賜る。慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いの際、淀堤千両松で官軍の銃撃により戦死。行年39才。墓碑と顕彰碑が日野市宝泉寺にあり、戒名は「誠願元忠居士」。


井上泰助(いのうえたいすけ)

井上源三郎の次兄八王子千人同心松五郎の子。慶応3年10月に土方歳三が隊士募集のため東下した際に、11才で新選組に入隊。上洛後は近藤勇の小姓となった。鳥羽伏見の戦いで叔父源三郎戦死の場に居合わせ、その首を持ち帰ろうとしたが、激戦のため断念し付近の寺に埋葬する。甲州出陣の際、日野にて隊を離脱。昭和2年68才で没。


大石鍬次郎(おおいしくわじろう)

一橋家家臣大石捨次郎の長男。脱藩浪人中に大工として日野宿佐藤彦五郎宅の普請を手がけたことがある。元治元年に新選組入隊。以後剣鬼として知られ、慶応年間の新選組血刃録には不可欠な男。甲州勝沼の戦い以後、一旦五兵衛新田の新屯所に顔を出すが、以後行方不明。明治3年、薩摩に属した元新選組隊士三井丑之助に発見され、坂本龍馬暗殺の嫌疑による訊問ののち、処刑された。


沖田総司(おきたそうじ)

奥州白河藩士沖田勝次郎の子で、幼名は宗次郎。9才で試衛館道場住み込みの門人として天然理心流近藤周助に入門し、のち試衛館塾頭で師範代。その剣筋は天賦の才と言われるほどで、近藤勇は流派の宗家をこの沖田に継承するつもりであった。新選組では副長助勤1番隊隊長として、数々の戦闘に参加。池田屋騒動出動の際喀血。労咳を患って病床の人となる。幕軍東帰に従い、幕府典医頭松本良順の診察を受けながら江戸千駄ヶ谷の植木職人平五郎宅で伏していたが、慶応4年5月30日、病没する。行年27才であった。墓は東京港区高輪の専称寺。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。一般の墓参は不可だが、毎年命日に近い日曜日に総司忌が催される。


近藤勇五郎(こんどうゆうごろう)

近藤勇の長兄音五郎の次男で、勇の娘瓊子の婿養子として近藤姓を名乗る。板橋の刑場で勇が斬首されたのを目撃し、首級のない亡骸を勇の門人等と三鷹の龍源寺に運び埋葬したという。天然理心流宗家は5代目として勇五郎が継承し、維新後、父音五郎から分け与えられた屋敷内の納屋を明治9年から道場に改築し、流派伝承につとめた。しかし、勇の生前に奥義を伝授されていたわけではないため、6代目宗家の内藤忠政は、元新選組隊士永倉新八に乞い、天然理心流の極意教授を受けている。調布市の近藤道場は門下生の手で昭和7年に改築され、盛大な道場開きが催されが、勇五郎はその翌年、83才で天寿を全うした。


斎藤一諾斎(さいとういちだくさい)

幕臣西丸御徒士組頭鈴木伴次郎の次男。6才で江戸今戸の潮江院和尚の養子となり、斎藤姓を名乗る。29才から同院住職。甲州都留郡強瀬村の全福寺の住職に転任。この頃還俗し、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊の甲州勝沼の戦いに協力し、のち上野彰義隊への参加を経て、会津新選組に入隊した。奥州転戦後、仙台で新選組を離脱。維新以後は、多摩郡由木村中野に寺子屋を創設し、教育事業に尽くした。日野の佐藤彦五郎とも親交があったと伝えられている。明治7年61才で没。墓は八王子市堀之内の保井寺にある。また、同市大塚の帝京大学門脇にある清境寺御手観音境内に彼の教え子と有志達が建立した顕彰碑がある。


立川主悦(たちかわちから)

筑前国宗像郡鐘浦町の町人喜六の子。甲州勝沼戦争の折りに局長付け小姓として入隊、会津以降は土方歳三に付属した。土方歳三戦死ののち、函館新政府瓦解の直前に安富才介の計らいで五稜郭を脱出。しかし、官軍に捕らえられてしまい、秋田藩に護送されて謹慎した。明治5年頃、日野の佐藤彦五郎宅を訪ねて土方歳三戦死の様子を記した安富の手紙を届けた。その後斎藤一諾斎を頼って仏門に入り、鷹林巨海として、同志の冥福を祈った。明治36年、山梨県東山梨郡地蔵院住職として68才で没す。


中島登(なかじまのぼり)

武州多摩郡八王子在寺方村中島又吉の長男。八王子千人同心に所属していたが、元治元年に新選組に入隊し、武州、相州、甲州の情報収集を担当したと言われているが確証はない。甲州勝沼戦争以後は、流山から野州戦争、会津戦争、函館戦争に従軍し、弁天台場で官軍に降伏する。捕虜生活を送るうち、新選組終結部分を綴った「中島登覚書」とその様子を絵にした「戦友絵姿」を残し、才人ぶりを発揮した。維新後は許されて浜松市に住んだ。葉蘭栽培をはじめ、銃砲店を開業して余生を送った。明治20年、49才で他界する。


松本捨助(まつもとすてすけ)

武州多摩郡本宿村(現府中市)の富農の長男。天然理心流門人。18才の時、文久3年に京都壬生の新選組屯所を訪ねて入隊を乞うが、「長男は家を継げ」と拒否され、帰省する。しかし、志を捨てず、土方歳三の甥を養子に迎えて家督を譲り、甲陽鎮撫隊に参加、以後仙台まで念願の新選組隊士として旧幕府脱走軍に加わる。仙台で土方に言い含められ、斎藤一諾斎とともに故郷に帰った。以後、井上源三郎の姪を娶り、名古屋に住んで米穀店を営む。大正7年、八王子で亡くなった。行年74才。


宮川信吉(みやがわのぶよし)

近藤勇の甥。武州多摩郡大沢村宮川弥五郎の次男。新選組へは、慶応元年の江戸における隊士募集に参加し上洛した。慶応3年、御陵衛士との油小路の戦い出動。同年12月に坂本龍馬暗殺の指図役と目されていた紀州藩士三浦休太郎を警護中、やはり油小路にある天満屋において、土佐海援隊の襲撃を受け、重傷を負って翌日没した。行年26才。墓は近藤勇と同じ三鷹市龍源寺。


安富才介(やすとみさいすけ)

備中足守の人。元治元年10月に新選組に加盟している。馬術師範として頭角を現し、のち監察方、勘定方に取り立てられ幹部となる。甲州敗退後、五兵衛新田の屯所から主力を率いて会津に直行した。会津新選組では副長。函館では新政府陸軍奉行添役として土方の側近をつとめる。一本木柵における土方の最期を看取った隊士として、日野の佐藤彦五郎宛の書簡を立川主税に託した。官軍への降伏後、明治3年に江戸で放免されるが、元新選組隊士阿部十郎によって殺害されたという。行年31才。


山南敬助(やまなみけいすけ)

奥州仙台出身。北辰一刀流千葉周作の門人で免許皆伝。市ヶ谷の天然理心流試衛館道場の食客となり、近藤や沖田らと交代で多摩地区への出稽古に出向いている。和歌、漢籍をよくしたインテリで、文武両道に長けていることから近藤に重用された。文久3年の結成期から新選組副長、総長などの幹部職にあったが、尊皇攘夷思想が強く、隊内では次第に近藤、土方と意見の相違から孤立していく。元治2年、突然屯所を脱走。近江大津の宿で沖田総司に捕らえられ、壬生の屯所に戻ったのち割腹した。墓は京都四条大宮の光縁寺。行年29才であった。


横倉甚五郎(よこくらじんごろう)

武州多摩郡堀之内在。天然理心流の門人で、元治元年に新選組に入隊する。のち伍長。油小路に待ち伏せて、伊東甲子太郎を暗殺した刺客の一員とも言われている。近藤が伏見街道墨染で伊東派の意趣返しにあい、銃撃された際、局長警護の兵として剣を振るった。甲州戦争、野州戦争、会津戦争と新選組隊士として従軍、函館新選組では第3分隊嚮導役。弁天台場で降伏ののち、東京辰之口兵部省糺問所に留置され、獄中で病死した。一説には油小路事件に関わったかどで処刑されたとも伝えられている。行年36才。八王子市鑓水の大法寺に墓がある。


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com