五稜郭

 
 鷲の木の上陸地点から道道5号線を南に40km。函館市街北部の繁華街であり観光拠点である五稜郭地域に至る。日本初の西洋式築城技術で作られたこの北の要塞は、現在は市民と観光客の憩いの公園として解放されており、すぐ側には、この緑繁る五稜郭を見渡す事ができる五稜郭タワーが建っている。
 本州の城と決定的に違うのは、江戸時代末期に計画されたこともあって、藩主の居城ではなく、天守閣を備えた城郭本体がない事だ。日本の北辺警備の命を担い作られたこの近代施設が実動したのは、皮肉にも日本最後の内戦である函館戦争だけであった。
 五稜郭タワーには、ペリー来航から一部開港政策に至った徳川外交の経緯、最も新しい開港地となった異人街「函館」の歴史とともに、五稜郭を舞台にした函館戦争の一部始終などが解説された資料室、展望タワーとお土産コーナーが設置されている。五稜郭公園には、現在は資料館と復元された兵糧庫が建っているが、蝦夷共和国の行政府であった旧函館奉行所建物の早期復元建立が望まれる。
 年間30万人以上の観光客が訪れるこの五稜郭タワーは、現代では100万ドルの夜景を誇る函館山と並び、函館の観光要衝の重責を担っている。

 五稜郭を目指した旧幕臣軍本道隊は、峠下の戦いで元唐津藩士の新選組隊士三好胖らの戦死者を出したものの、戦闘経験のない松前藩士・津軽藩士を中心とした明治政府軍よりも戦術的に勝っており、次々に敵の警戒前線を後退させた。七飯村では、明治政府軍に包囲された遊撃隊の人見勝太郎率いる小隊が、地形的にも軍勢的にも不利ながら街道に今も残る松並木に守られて敵の背後に回り、白刃戦の末これを敗走させている。
 土方歳三は、間道総督として鷲の木から森を経て海岸線を南下、途中川汲(かつくみ)温泉付近で明治政府軍の小隊に出くわすものの、瞬く間に退却させて一路五稜郭に向かった。この間道では、大きな戦闘はなかったが、本州各国出身者で構成されている旧幕臣軍には、蝦夷の厳寒こそが敵であったという。腰まで積る深い雪の中、一重の着物に足袋という姿で、笠もなく全身を濡らして進軍した。しかし、敵との戦闘はなかったが、間道隊内部の先陣争いが起こった。前年の慶応4年4月に流山の陣屋から新選組隊長近藤勇が東山道総督府に下ったとき、近藤の従者として従った隊士野村利三郎は、一時逮捕拘禁されたが、その後釈放され、相馬主計と行動を共にして北関東戦線を戦い、石巻でやっと土方に再会を果たしていた。その野村は、新選組小隊を率い、鷲の木上陸後春日左衛門の陸軍隊に所属していた。戦功にはやる野村は、春日の許可なく自らの小隊を前進させようとしたが、春日がこれを制すると、不服として抜刀して抗議した。土方の仲裁でこの場は収まったが、五稜郭占領後、春日は軍法を盾に野村の処分を訴えた。しかし、榎本武揚は、野村の人材を惜しみ、軍律違反を許している。
[参考] 近藤勇

 明治元年10月24日、現状の形勢不利を知り、援軍の期待も薄い事から、清水谷函館府知事は、首脳会議を開き、明治政府軍の退却を命令した。そして、25日には府知事は青森に渡り、松前藩士は松前城の警備に戻った。大野に布陣していた大鳥圭介の本道隊は、土方の間道隊が湯の川に到着したのを斥侯から知らされており、26日にはスムーズに抜け殻となった五稜郭に入城した。また、同日夕方には土方隊も大手門から入場している。

【五稜郭】

函館開港に伴った北辺警備のため徳川幕府が築いた日本初の西洋式城郭。蘭学者の武田斐三郎が設計し、元治元年(1863年)に完成した。現在は、郭内は公園として市民に開放されている。隣接する函館タワーには、土産物コーナーがあり、土方歳三まんじゅう、歳三ラーメン、土方の肖像をラベルにしたワインなど、土方歳三にちなむ土産が多数販売されている。

【函館タワー展望台】

入場料 大人630円
駐車場 付近に有料駐車場あり

函館市五稜郭43-9 TEL:0138-51-4785 FAX:0138-32-6390


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