tamatitl.gif

hikofig.gif(さとうひこごろう・としまさ)

佐藤俊正、通称:彦五郎
日野本郷寄場名主

文政11年(1828)〜明治35年(1902)
武州多摩郡日野宿(現在の東京都日野市日野本町)生まれ。

 

甲州街道の日野宿は、日本橋を出発して内藤新宿、高井戸、布田五宿、府中に続く街道の一宿駅で、内藤新宿や府中、八王子などが伝馬の囲いが八人八疋であったのに対し、日野宿は五人五疋であったのをみれば、あまり大きな宿場ではなかったようだ。しかし、多摩川の日野の渡し(渡船場)を管理していたため、かなり重要な位置にあった事は確かである。この日野の宿場を中心に、東光寺、四谷、万願寺、谷戸等を含めて日野本郷と称する三千石の管理にあたっていたのが、代々日野宿の名主を務めていた佐藤家である。

佐藤彦五郎は、父の早逝のため、天保8年(1837)11才で名主役を相続した。生来克己心が強く、義侠心に富んでいたので村人から敬慕されていた。妻のぶは、土方歳三の実姉にあたる。嘉永2年(1849)正月、佐藤家から道を隔てた一軒の農家から火災が発生、強い北風に煽られて佐藤家をはじめ十数軒が類焼するということがあった。この火事の最中、一人の狂人のため彦五郎の祖母と他一人が斬殺されるという異変が起こった。この事件を契機として彦五郎は、内外の攘夷の風潮やまた寄場名主としての村の治安維持防衛の必要を感じるようになる。翌年24才のおり、井上松五郎(八王子千人同心、日野の千人組頭石坂弥次右衛門の世話役)に依頼し、時々この地を訪れる天然理心流三代近藤周助邦武(近藤勇の養父)へ入門。以後、彦五郎は剣術の稽古に熱中し、嘉永7年(1854)2月には極意皆伝の免許を得た。近藤勇とは兄弟弟子で、後に小野路の小島為政と三人は義兄弟の契りを結ぶ間柄となった。その後彦五郎は、自宅長屋門の東側の一角を四間半四面の道場に改造、そのため多摩地方の天然理心流への入門者は急増したといわれ、後年新選組となった土方歳三や沖田総司、井上源三郎が常時出入りして竹刀を振るっていたといわれる。

また彦五郎は、安政元年(1854)幕府が品川沖に砲台を築造したおりに献金をしたり、文久2年(1862)のコレラ流行の際には私財を投じて薬剤を施与したので、幕府より前後2回白銀を給された。文久3年幕府の浪士隊募集に際しては、彦五郎は名主の仕事があるため、義弟の土方歳三を自分の代わりとして参加させ、自らは江戸と多摩に残された新選組隊士の子弟の世話と剣術の指導を引き受けた。また、京における困窮期の初期新選組にたびたび資金的援助をした記録が残っている。文久3年に日野農兵隊を組織し、慶応2年(1866)相次ぐ飢饉のため武州吾野や名栗などの村々で蜂起した農民一揆(武州一揆)が小宮村(現八王子市小宮町)の地先、多摩川の対岸まで押し寄せたが、日野農兵隊は千人同心と共に闘い、これを撃退した。このため日野宿および八王子宿は打ち毀しの難を免れた。彦五郎は、豪胆さでも近藤勇や土方歳三と同等の資質をもっていたと言えるエピソードがある。風雲急を告げる慶応3年、薩州浪人ら12名が軍用金と称し押し借りをはたらきながら江戸から八王子宿まできた時である。代官の命で農兵隊から討ち手を集めた彦五郎は、不逞浪士の止宿先である八王子壷伊勢屋の2階を探索すべく暗闇の階上に至ると、不意に短筒の赤い閃光が光った。彦五郎は臆せず踏み込み、諸手突きにて賊を仕留めている。京から一時帰江した近藤がその話を聞くや、一驚して「鉄砲と刀の打ち合いは危ない、危ない。私もまだそれだけはやらぬ。」と言ったという。

慶応4年1月。鳥羽伏見の戦で幕府軍が敗れ新選組も江戸へ退却した。その後甲府城を占拠して征討軍の江戸進撃を阻止すべく甲陽鎮撫隊を組織した際、彦五郎は一切の兵糧をうけもった。そして、自ら近在の義勇軍である春日隊を編成し追従したが、勝沼の戦で敗退する。その後征討軍の追及を躱すため一時一家離散の憂き目を見たが、維新後再び日野宿に戻ることができた。その後初代日野町長、南多摩郡長を歴任し、明治35年9月17日、76才で生涯を終えた。春日庵盛車と号して俳句に親しみ、寄場名主として、また天然理心流の後見人として、あるいは自らが撃剣士として波乱の人生を送った佐藤彦五郎は、多摩の歴史を作り上げた立役者のひとりに数えられるべきである。

旧日野宿寄場名主佐藤屋敷(現日野館)


silvball.gif 高幡不動「殉節両雄之碑」
silvball.gif 日野「日野館」

「トップページに戻る」 
三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com