多摩の人と歴史


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土方歳三資料館所蔵資料
その3

「歳三戦死を知らせる安富才助書簡」

榎本武揚らの函館新政府は、アジア史上初の共a国として諸外国に独立国家を宣言するとともに、朝廷にも勅許を願い出た。既成事実として、「デファクト・ガバメント」を押し通そうと試みたわけだ。しかし、薩長土を中心とする明治政府がそれを容認するはずがなく、朝敵として追討指令が出る。蝦夷地に春が訪れた明治2年4月、官軍の大軍が上陸し、日本史上最大の内戦である戊辰戦争は、5月18日に函館新政府軍の降伏でその幕を閉じた。函館政府の陸軍奉行並兼函館市中取締として、軍隊の統率に希代の才能を発揮した土方歳三は、ついに5月11日の戦闘で壮絶な戦死を遂げる。京都以来歳三に従った新選組隊士安富才助が、日野の歳三の生家に宛てた書簡にその様子を克明に記している。瓦解寸前の五稜郭城内で記されたと推定される書簡は、歳三の従者である立川主税と元近藤勇の馬丁で、やはり歳三に従い蝦夷地に渡っていた沢忠助の2名に託され、明治5年頃函館から遠く離れた多摩の地まで届けられている。

「歳三戦死を知らせる安富才助書簡」

安富才助書簡読み下し文

一筆啓上つかまつり候。雨天の節に御座候得共、揃われてご安泰、賀し奉り候。しからば土方隊長御義、江戸脱走のとき伝習第一大隊を率い野州宇都宮に戦われ、この後戦のとき手負い、会津でご養生ご全快、同所東方面を司られ後、同所瓦解のとき入城なりかね仙台に落ち、同所大君お逢いこれあり、説刀を贈られ、奥州福島へご出張のはず、また同所国論生通にて止む。
辰十月、榎本和泉殿と誓い蝦夷に渡られ、陸軍奉行並海陸裁判を司られ後、巳の四月、瓦解のとき二股という処に出張、大勝利。
そのほか数度戦い、松前表街ついに利なくしてついに引き揚げ、同五月十一日函館瓦解のとき、町はずれ一本木関門にて諸兵隊を指揮遊ばされ、ついに同処にて討死せられ、誠にもって残念至極に存じ奉り候。
拙者義いまだ無事、何の面目やあるべく候。今日至り候よう篭城に軍議あい定まり、いずれも討死の覚悟に御座候。
ついては立川主税義、終始付き添いおり候間、城内を密かに出してその御宅へ右の条々委細お物語いたし候よういたしたき存念に御座候。いずれその御宅へまかりいで候間、さようご承知くださるべく候。右は城中切迫に取り紛れ、乱筆ご容赦くださるべく候。まずはお知らせのみ、別に貴意を得、かくのごとくに御座候。恐惶謹言。
五月十二日
安富才助 正義(花押)
土方隼人様

なおもって、おりがらご自愛お厭い、かつお目に係り申さず候得共、ご総客様方へよろしくご伝言くださるべく候。

隊長討死せられければ

早き瀬に力
足らぬか
下り鮎

その4 佩刀「和泉守兼定」を読む

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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com