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開祖近藤内蔵之助の墓碑(桂福寺)
天然理心流の開祖近藤内蔵之助に関する史料は非常に少なく、とくに天然理心流創始以前を知るものは皆無と言ってよい。天保14年(1843)の「新撰武術流祖録」によれば、天然理心流について次のように記されている。

「天然理心流 近藤内蔵之助長裕遠江ノ人也、好刀術得其妙、号天然理心流其門近藤三助方昌得其宗方昌ハ武州八王子住其門許多シ」

これによるとただ遠江の出身ということが分かるだけで、没年月日はわかっていても何歳で亡くなったのか不明である。内蔵之助は、剣術を非常に好み、広く諸国を歩いて修行をつみ常陸の鹿島神宮に詣で術の極意を悟ったという。鹿島神道流 飯篠長威入道34代と称しているが(二つの異なった史料が発見されている)どちらの史料が正しいかよくわからないが、いずれにしても天真正神道流を学び、その後天然理心流を創始したらしい。「天然理心流印可」によると、その型から天真正神道流の流れを継いでいると思われる。内蔵之助は晩年に天然理心流を完成した。剣術のほかに、柔術、棒術、気合術などを含む総合武術であったようである。

内蔵之助の剣術の道場は、江戸薬研堀(現在の中央区日本橋2丁目あたり)にあったと思われ、ここから頻繁に足をのばして、相州高座郡や武州八王子、五日市方面に通って天然理心流を教えていた。どういう理由で多摩や相州地方に剣術を教えに来るようになったかは不明であるが、これらの地方では内蔵之助が来る以前には、剣術を学んでいる者は殆どいなかったようである。内蔵之助は文化4年(1807年)10月16日に江戸薬研堀の住居で没している。内蔵之助は相州や多摩地方の名主、豪農層をつかみ、彼らに天然理心流を広め、後に、これらの土地から免許、印可、指南免許者が育ってきて、その地方の土壌に深く浸透して広まっていったのである。

天然理心流は、「天然之誠気理心之精妙」といい、あまり小技を用いないで、気力、気組みで敵を圧迫していく実践的な剣法で、重く、握りの太い木刀をふるう素朴な剣法に、何か多摩の農民の心を強く打つものがあったにちがいない。また、さらにこれらの地方に天然理心流が進出する前に、別の剣術が育っていなかったことも幸いして、武州多摩郡や相州において容易にその土地に溶け込むことが出来たのであろうと想像される。(K)

法名智正院顕隆日理居士

 

天然理心流稽古用木刀(現代)

 


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com