多摩の人と歴史


ryoyufig.gif 意訳文 その1

三浦正人

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多摩川(立日橋の立川側から日野側をのぞむ)
多摩川の水は、甲州と武州の境を水源として東に流れ、青梅の諸村を経てから川の勢いが増して速くなる。水は澄み、味は甘い。かつて徳川幕府が多摩川に堰を設けて上水とし、近隣百里にそれを引いたため、江戸の都下の多くの家庭を潤わせた。大いに利用したものである。怪男児近藤勇昌宜、土方歳三義豊はその多摩川の両岸に生まれた。昌宜は、幼名を勝太といい、後に勇と改めた。上石原宿の宮川久次の三子に生まれ、近藤家の養子となる。義豊は歳三と称していた。石田村の土方善諄の四子。二人は共に生まれながらにして忠勇で、意気投合し兄弟のように親しんだ。共に剣法を近藤邦武先生に学び、それぞれ精妙を極める。文久3年春、徳川将軍家茂上洛に際し、有志の処士の徴募が行われた。新徴隊の募集である。昌宜、義豊は躍り上がり、それに参加することにした。他に徴募に応じたものなど260名は、2月8日に江戸を出立した。将軍は3月に上洛する事したが、将軍家の命令により、新徴組はほぼ全員が再び東下することとなった。昌宜は、嘆くように義豊に言った。「現在の浪士たちを見るところ、おおむね勤王を口にはしているが、暴虐を尽くして幕府を排斥しようとしている。物情は恐々としており、不穏な事件が頻発する。志あるものは京都に留まり、皇居を警護すべきだと確信している。」そして、その旨を同志13名と連名で幕府に提出した。幕府はその申し入れを即決し、改めて新選組と呼称する事になった。昌宜が局長、義豊は副長である。こうして、京都守護職である松平容保の配下に組み込まれた。二人の名声は日に日に顕著となり、入隊希望者が急増する。翌年、元治に改元となった。その6月、四条小橋の西側に潜居していた古高俊太郎という浪士が、密かに皇居に放火する計画を謀っていた。二人はそれを探索の結果察知し、逮捕の上差し出す。その夜、討幕派の一味数十人と三条の町で戦い、7人を斬り捨て23名を捕縛した(池田屋事件)。幕府はその功績を高く評価し、二人を旗本として取りたてると通知したが、それを固辞した。理由は、「我々は将軍に仕え、力を尽くすのが使命だ。現在の職のままで十分。」しかし、7月には長州の家老である福原越後、国司信濃、益田衛門などが池田屋事件に反発し、数百人の兵を率いて、京都を襲うことになった。飛び交う弾丸が宮城に及ぶ。新選組をはじめとする京都警護軍は、縦横に奮戦した。その結果、反逆軍の将である真木和泉を天王山に追いつめる。昌宜と義豊は、進軍し攻撃するが、敵は山の上から大砲を撃ち下ろして抵抗した。しかし、会津藩の西郷、浅川といった軍師と協力し、猛攻撃をかける。観念した和泉は、自ら陣地に火を放ち、残党とともに火焔の燃え盛る中、屠腹した。一方、福原ら他の3名の将は、かろうじて逃げ落ちていった。幕府は再びその働きを称え、特に昌宜を大御番組頭として扱うことに決定した。しかし、昌宜は、またも固くそれを辞し受諾を避けた。

慶応2年、前将軍家茂が病死すると、徳川慶喜が将軍職を継いだ。そして、3月にはその職を辞して政権を朝廷に返還し、大坂に身を引く事になる。明治元年正月3日、慶喜は天皇に謁見するため参内することに決した。そのため先ず家来の滝川某を派遣し、鳥羽伏見の二つの関を通過したい旨、申し出た。ところが、衛兵はそれを強く拒み戦端を開く事となった。東軍(旧幕軍)が多数その後方に続いている。京軍は大砲を揃えて、それに対抗した。それと前後して昌宜は銃によって負傷し、大坂へ下らざるをえなくなってしまった。義豊は一人力を奮って戦い、銃弾の雨が注いだ。そして遂に東軍は敗れ去り、慶喜は大坂から回陽丸で江戸に東帰した。昌宜、義豊もそれに続く。2月には、官軍となった京軍10万の兵が、東海道、東山道を並んで江戸を目指し、慶喜を討つという勢いであった。江戸の町は震撼した。

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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com