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近藤勇墓所



曹洞宗大沢山龍源寺。新選組局長近藤勇の生家宮川家の菩提寺である。西武多摩川線の多摩墓地前駅から人見街道を三鷹市役所方面に約1kmに向かうと左側に位置している。都立野川公園の南側で、竜源寺バス停があるため、迷うことは少ない。山門の左手に近藤勇の胸像と天然理心流の碑がある。この碑は昭和63年3月に三鷹市剣道連盟が建立したもので、碑文には「この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した近藤内蔵助長祐が創始した天然理心流の四代目を継いだ剣豪です。その神髄は誠の剣であり、力の剣であるとも言われています。古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。天然理心流の木刀5本の形と柄砕3組の演武のフィルムが日本武道館の古武道協会に永久保存されています。三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。」とある。時代は剣を必要としなくなったとは言え、歴史と文化を尊ぶ人達によってその精神は生き続けている。近藤勇も草葉の陰から、今でも多摩の若者が竹刀を振るう姿を眺めては目を細めていることだろう。この龍源寺には、近藤が牛込試衛館道場から多摩へ出稽古に来た際に使用したとされる愛用の木刀が今も保存されている。

また、同寺には、あまり知られていないが、勇の甥で新選組隊士の宮川信吉の墓もある。

墓所は、本堂裏の竹藪を抜けるとひっそりと佇んでいる。墓地に入るとすぐ右手に近藤勇、勇の娘婿勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)、勇五郎の子久太郎、新吉の墓がある。また、勇が辞世の句として残した七言絶句二首が刻まれた辞世の詩碑が建っている。板橋の刑場で斬首された勇の遺骸を勇五郎や門人達が夜韻に紛れて運び出し、この墓所の地下に埋葬したとされている。そして、胴を離れた首級は京都の三条河原に晒された後、誰かに持ち去られたとなっている。しかし、昭和33年になって、愛知県岡崎市の法蔵寺に埋葬されていたという説が浮上した。三条大橋に程近い誓願寺の和尚が生前の勇から敬慕を受けていて、哀れに思った和尚が転任地である法蔵寺に運ばせた、と法蔵寺の碑文には記されている。法蔵寺は徳川家康が幼少時代手習いをした寺として知られ、旧東海道に面した緑深い山寺である。維新の混乱期に、この街道を赤、白、黒のシャグマ笠を被った官軍兵士が多数行き来したはずだか、まさか近藤の首級が密かに葬られているとは気づかなかったに違いない。確たる証拠はないとは言え、そう想像すると京で恐れられ憎まれたと伝えられる近藤勇も救われるであろう。近藤勇昌宜。慶応4年4月25日没。享年35才。法名は貫天殿純誠義大居士。この最高級の戒名は会津藩主松平容保の命と言われている。近藤勇の墓・碑と言われるものは他に次の各地にある。
板橋駅 近藤勇土方歳三之墓

元新選組隊長倉新八(杉村義衛)が時の軍医総監松本順の揮毫を求めて、最初の屍を埋めた斬首の地に、土方歳三への追悼の意味も含め建立したもの。

会津若松愛宕山天寧寺

遺体そのものとは縁故はなく、近藤勇処刑の報を聞いた土方歳三が転戦先の会津若松の地に建立したもの。

京都壬生寺

胸像とともに遺髪塔が建てられている。


place.gif 大沢山龍源寺

[所在地]三鷹市大沢6-3-11

[最寄駅]JR三鷹駅より小田急バス「車返団地行き」で龍源寺にて下車1分。

駐車場有(参拝者用)


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com