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土方歳三墓所

 

真言宗愛宕山地蔵院石田寺(せきでんじ)は、浅川が多摩川と合流するちょうど手前の内側に位置している。古くから現地に土着していた土方一族の墓所である。山門脇の駐車場から境内に入ると、六地蔵の左手に樹齢400年と言われる高さ約20mもの(カヤ)の木がそびえている。その木陰に、明治100年を記念し歳三の次兄隼人の曾孫にあたる土方康氏が建立した土方歳三顕彰碑がある。ここからが墓地となっており、ほとんどが土方姓だが歳三の墓には案内板と説明文がついているので迷う事はない。墓所には2つの墓碑があるが、右側の古く小さいのが歳三の墓だ。歳三は函館で戦死しているため、この墓には遺骨はない。「歳進院殿誠山義豊居士。明治2年5月11日没。」

 

榧はイチイ科の常緑樹。

土方歳三顕彰碑

歳三墓碑

 

石田寺の南側には都立日野高校があり、さらにその南に浅川が流れている。毎年夏になると浅川の両岸に朝顔に似た葉にトゲのある「牛革草」という野草が茂る。これを土用の丑の日に石田(いしだ)村の村民が総出で採り、よく乾燥させて黒焼きにし、薬研でおろして散薬にしたものが土方歳三の生家に伝わる打ち身薬「石田散薬」である。先祖の夢枕に河童明神が立ち、調合を教えたという家伝の薬だ。歳三は若い頃この石田散薬の行商をしながら武州各地を巡り、旅先で町道場を見つけては試合を申し込んで剣術の修行を積んだと言われている。京に上った後の新選組においても、打ち身骨折の常備薬として歳三は隊士に服用を奨めた。池田屋事変の際も、帰隊後の隊士に飲ませたところ、数日で打撲痛は消え、骨折も肉巻がしなかったという。熱燗の酒と同時服用するというところから、いわゆる「気」で治癒する効果の方が高かったのかもしれない。土方家では明治以後もこの石田散薬を製造していたが、終戦後の昭和23年に新薬事法が成立した際に製造販売の許可を求めたが認められず、その後製造を止めてしまって現在はない。歳三の組織オーガナイザーとしての才能は、牛革草採取時の村の衆の動員時に発揮されたという。浅川の河原を眺めていると、歳三の采配の声が今でも聞こえてきそうだ。

石田寺の東側は、現在下水処理場となっているが、歳三の生まれた生家はこの処理場のおおよそ北のはずれあたりにあった。しかし、歳三がまだ幼い頃多摩川が増水のため氾濫し、土蔵の一部が壊されたため、屋敷は約500m西の現在の位置に移転した。

平成九年歳三忌


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愛宕山石田寺

[所在地]日野市石田145

[最寄駅]京王線高幡不動駅より京王バス立川行きにて約5分「日野高校」下車4分

駐車場有(参拝者用)


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com