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近藤周助の墓は東京タワーの目の前(金地禅寺)
天然理心流三代目宗家は近藤周助邦武が継いだが、他に近藤三助の高弟でその妻の兄にあたる松崎正作栄積が継いだという説と、やはり三助の高弟であった増田蔵六一武という人が天然理心流正統三世といわれているという話もある。しかし、いずれも確証のほどは明らかではない。分派というところであろう。近藤周助は、武州多摩郡小山村三ツ目(現・町田市小山町)の名主島崎休右衛門の三男として寛政4年(1792)に生まれ、その生涯に名前を四度変えている。幼名を関五郎といい、その後周平、周助と称し、以後隠居して慶応3年(1867)に亡くなるまでを周斎と号した。関五郎と言っていた20歳の頃、戸吹村の近藤三助の道場に入門している。近藤三助には門下生として相当な剣の使い手で後に天然理心流の師範代となる人に、近藤周助を含めて7人いた。

三沢〈増田〉蔵六(戸吹) 桑原英助(相州)
宮岡三八(平井) 井滝伊勢五郎(砂川)
松崎正作(戸吹) 漆原権左衛門(相州)

島崎周助が近藤姓を継いで天然理心流三代目となったのはどのような理由があるのか不明だが、三助の死後12年目の天保元年(1830)2月11日のことである。また、周助と他の師範との差は、周助が剣術を教えることを専業として生活を維持していたのに対して、他の師範は剣術を教授する以外にも八王子千人同心、名主といったような本務をもっていた。このような理由もあって周助が近藤宗家の三代目を継いだのであろう。天然理心流の門人の分布から見ても、各師範が対等の地位にあり、周助が近藤姓を名乗っているからとは言っても、宗家として他の師範をしっかり掌握していたとは限らない。地域によっては多少門人が重なる村はあっても、各師範の門人分布の範囲は、自ずから決まっていて、お互いにその権利を暗黙のもとで認め合っていたものと思われる。実態としては、多摩における近藤周助も、他の天然理心流師範と同じく同格の立場にあったと考えられる。周助の門弟は、八王子から日野、府中、上石原にかけて多く、小道場が作られ門人も後半には300人に達したといわれる。但し、周助の最大の功績は、それまで八王子千人同心を中心としてきた天然理心流門人の分布図を大きく東に拡大したことであろう。江戸市谷柳町の「試衛館」道場も、周助が開設している。天然理心流第四代を近藤勇に継いだ後、周助は激動の幕末期を四谷舟板横丁の隠居所で過ごし、没年は慶応3年10月28日、行年76歳の天寿を全うした。墓は、港区芝公園3丁目、金地院にある。(K)

konmon.gif近藤家々紋
  試衛館道場のあった市ヶ谷柳町近辺(現在)



近藤周助は、道場経営者として「しっかり者」であったと想像できる逸話が残っている。万延元年(1860)秋に府中の武蔵六社宮で行われた奉額試合のときである。近藤勇や土方歳三ら周助率いる天然理心流門人達が拝殿前で型試合を行い、他の門人達、府中宿住民、飯盛旅篭などからの寄付募金を集めた。合計225両集まったとの記録があるが、支出の記録は、神事経費、神楽執行料、六社宮奉納金などを含めても170両に過ぎない。残る55両を周助自身の報酬50両、勇分5両と分配し、収めてしまっている。その後の使途は不明であるが、試衛館の運営費に充てられたと想像したい。
(小島資料館刊「新選組」余話より。)

また、周助は天然理心流及び同流自派の勢力を顕示するため、上記六社宮(大国魂神社)のほかに、日野の八坂神社にも剣術上達祈願の献額を奉納している。ここでも、事業収入増と広告宣伝効果向上の双方を効果的に遂げているはずで、経営者として、営業戦略に長けていたと言えよう。

 


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com