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武術「天然理心流」には、入門に際して守秘及び門人としての心得を宣誓する習慣があった。これが「神文帳」で、新入門人はそれを宣誓するため、自らの手の指を真剣で傷付け、血判を押印した。その「神文帳」巻物には、次のように記されている。

神文の事

1 天然理心流の流儀執心は浅くなく、懇望されるため相伝するが、謹んでその旨を理解すること。
1 指南免許未満のものは、例え親子兄弟といえでも流儀について相伝してはならない。
1 技量至らないうちに他流との試合は禁ずる。
1 他流の剣法をみだりに批判することは禁ずる。
1 技量上達がままならない場合、師範を恨むことは禁ずる。

右の各条に背くものは、天神地神、日本中の神々、熊野三社大権現、鹿島大神宮の神罰や天罰が落ちるものなり。

神文は件の如し。

この神文の文章を見ると、「神罰、天罰が落ちるぞ」という平時ならではのいささか童話的表現があるものの、後年「血の鉄則」として新選組隊士の綱紀粛正に機能し、周囲からも恐れられた新選組「局中法度」の参考になったであろうと思われる部分を読み取ることができる。

文久三年に当時の理心流宗家であった近藤勇が浪士隊の徴募に応じて上洛した際、留守中の多摩地区の剣術稽古師範として、日野宿の名主佐藤彦五郎が指名された。彦五郎は豪胆にして責任感の強い男であったが、多忙な名主職との兼任であったため、新入門人の受け入れは、ごく狭い範囲にかぎられた。現在、日野の佐藤家にこの年度別「神文帳」巻物が三巻残っている。文久三年、元治元年、慶応三年の三巻である。この他二巻あったと言われているが、維新時の西軍探索の折に行方が分からなくなった。以下文久三年の神文帳から、その年の新入門者の住所を見てみる。

彦五郎の道場があった日野宿を中心に甲州街道を東に立川、国立、府中まで、西は八王子の石川まで、平山を越えて由木地区から小山田まで、南は現多摩市の一ノ宮から小島鹿之助の道場があった小野路までと、日野を中心とした放射状に門人が分布していることが分かる。この文久三年という年は、上洛した近藤勇らが禁門の政変などに出動したとはいえ、天下に「天然理心流」の剣名を知らしめた「池田屋事変」は翌年のことである。したがって、まだ著しい働きをする前のため、門人たちはその風聞を頼って集まったとは考えられず、純粋に攘夷風潮と剣術熱によるものと思われる。

下記の門人表には土方歳三の実兄で、下染谷村の医家に養子入りしていた「糟屋(粕谷)良循」の名を見ることができる。

天然理心流新入門人表(文久三年) 

日野 38
日野宿 奥住歌之助 奥住与吉 立川武助
  渡辺源蔵 和田惣十郎 福島菊次郎
  有山重蔵 井上定次郎 落合愛次郎
  高木吉蔵 土方吉次郎 谷 富蔵
  佐藤力之助 土方庄三郎 和田平次郎
平村 平 太郎 山崎房太郎  
平山村 大沢惣次郎 阿川金太郎 馬場島次郎
  大沢由五郎 秋間善次郎 大沢興市郎
  塩野半七 鈴木勘七 鈴木清八
川辺堀之内 増田紋之助 岸野新治郎 伊藤百平
  伊藤治郎    
豊田村 遠藤亀吉 二ノ宮岩次郎 村野百松
  二ノ宮伊太郎 村野紺次郎  
万願寺 金子万作    
新井村 土方健次郎 土方一平  
宮村 小棚弥一郎    
八王子 20
栗須村 和田忠次郎 石河茂一郎 福島春平
  石川嘉吉    
上柚木村 伊藤直蔵 伊藤房右衛門 伊藤清兵衛
  勝沢嘉十郎 佐藤松五郎 栗本斧右衛門
下柚木村 内田三吉 大室代次郎 内田定吉
石川村 守屋貞次郎 立川佐市 立川筆三郎
  立川礒之助 石川和助 内田武八
  立川き之助    
府中 15
是政村 三岡周助 八木五兵衛 高木吉五郎
  伊藤茂吉 井田武周 井田仙蔵
  影山清次郎 三岡吉六 大久保佐太郎
  横山慶次郎 三ツ岡喜重郎  
下染谷村 糟谷増三郎 糟谷良循  
上染谷村 村野貞次郎    
府中宿 矢部甚五右衛門    
立川 7
柴崎村 板谷伊六 馬場里次郎 小川源治郎
  加藤東太郎 五十嵐仙三郎 小川保太郎
  馬場幸次郎    
町田 5
小野路村 阿川伊予松 萩生田平造  
小山田村 薄井磯右衛門 中島小太郎  
上小山田村 中島一蝶    
国立 4
下谷保村 本田東朔 小川倉吉  
青柳村 佐藤荘司 沢井善輔  
多摩 4
一ノ宮村 新田佐仲 中川秀吉 宮崎文三郎
  山田綱五郎    
稲城 1
榎戸新田 榎戸重太郎    
その他 入間郡1名 相州3名 不明3名

*「聞きがき新選組」(佐藤c著、新人物往来社刊より)

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佐藤彦五郎
佐藤道場
文久三年

 


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com