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toshifig.gif(ひじかたとしぞう・よしとよ)


土方歳三  のち内藤隼人

新選組副長、徳川幕府寄合席格、

函館新政府陸軍奉行並

天保6年(1835年)武州多摩郡石田村

現在の東京都日野市石田生まれ。

京王線高幡不動駅の新宿よりの踏み切りを越えてバス通りを北へ、やがて浅川にぶつかる。川にかかる新井橋を渡って道を右に折れ、車一台がやっと通れるようなくねくねと曲がりくねった狭い道をしばらく行くと「石田寺」に突き当たる。その右手一帯が同寺の墓地である。入り口に新選組土方歳三の子孫土方康氏が明治百年を記念して建立した「土方歳三義豊之碑」と碑文のある立派な記念碑が立っており、内には大きな榧の樹に抱かれるように土方歳三の墓がある。墓前には歳三の写真が置かれ、千羽鶴などが手向けられており、最近の新選組ブームが偲ばれる。また新井橋を越して左に入ると、黒いトタン屋根に覆われた農家風の歳三の生家がある。歳三はこの家で5人兄弟の末っ子として天保6年(1835)に生まれた。両親と早く死別し、20歳をすぎた頃より武術(天然理心流)を志して、家伝の「石田散薬」=土方家の骨折・打身の秘伝薬で多摩川の水辺に野生している牛革草という野草を原料としている=の行商をしながら、薬箱の上に剣術道具をくくりつけて、行く先ざきで道場を見つけると他流試合を申し込み剣の腕を磨いた。

のち文久3年(1863)幕府の浪士隊結成に試衛館の仲間近藤勇らと共に参加上洛し、のち近藤を助けて新選組を組織した。内には鉄の戒律「局中法度」をつくり内部粛清を行い、外では京都守護職会津中将お預りとして不逞浪士の取り調べ、市中見廻りを行ない、西国浪士たちを震撼せしめたが、激動する時の流れは幕軍に利せず、大政奉還、王政復古の大号令へと続く。そして慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦に敗れ、近藤勇が流山で捕らえられ板橋で斬首された後、新選組の生き残りを率いた土方歳三は、北関東、会津と転戦し仙台にて榎本武揚の艦隊に合流し新天地に希望を求めて蝦夷地函館に上陸する。

北海道・函館市街の西の外れ、函館山の山腹(函館市谷地頭)にある函館八幡宮の奥に「碧血碑」=「碧血」とは義に殉じた武人の血は3年たつと碧色に変わるという中国の故事に做つたもの=がある。戊辰の役、函館戦争で敗れた幕府軍戦死者の遺体は、政府軍の目を憚って顧みる人もいなかったが、土地の侠客柳川熊吉と日蓮宗一乗山実行寺の日隆和尚が音頭をとり街の人たちに呼びかけ、遺体を集めて一まず、実行寺、称名寺、浄玄寺の三ヵ寺に手厚く埋葬した。明治4年(1871)函館山山腹に土地を求め、ここを実行寺の付属地として先に埋葬した戦死者976名の遺骨を合同改装した。のち明治8年(1875)5月、榎本武揚や大鳥圭介たちの協力でここに建立されたのが「碧血碑」である。

土方歳三の戦死した場所は一本木(現・若松町で「土方歳三最後之地」という碑石が建っている)と言われているが、別に大手町とも、末広町ともいわれており判然としない。またそれを決定するような確乎たる証もない。 明治2年(1869)5月11日、最後まで新選組副長としての誇りを持ち、単騎、政府軍陣地に切り込みをかけ、一本木柵を突破したが、敵弾を腹に受けて散華した。

捉えがたき星を捉えようとする道を敢えて選び、心中一点の翳りなく誠に生き、義に殉じたその壮烈な死にざま、時に歳三35歳、奇しくも近藤勇が斬首されたときと同年である。予め死を覚悟していた歳三は、5月5日小姓の市村鉄之助を郷里多摩の日野に使に出し遺品(写真・毛髪)と辞世の歌を託した。

たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも

魂は東の君やまもらん

日野の菩提寺の石田寺の土方歳三の墓は、いわゆる引き墓=死者を埋葬したはかとは別に、離れたところに供養のために造る墓で、墓参はこちらにする=つまり詣り墓で遺骨はない。生まれ故郷の墓に遺骨がないということは、何か物悲しく感じさせられる。また、JR日野駅から甲州街道(国道20号)を東へ、日野警察署手前右側に古い屋敷風の建物が見える。ここが、近藤勇、土方歳三、沖田総司らが牛込の試衛館から多摩へ出稽古に来た佐藤彦五郎(近藤勇と義兄弟で、土方歳三の姉のぶと結婚した)の道場跡で、現在は「日野館」という蕎麦処となっている。(K)

写真 : 函館大戦争之図 永島孟斉(町田市小野路 小島資料館蔵) 右下の武士が土方。


高幡不動「土方歳三の像」
高幡不動「殉節両雄之碑」
石田「石田寺」
石田「土方歳三資料館」

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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com